ミャンマー チャイントンの民族 Author 101 Date 2017年7月19日 チャイントンは元々、ワ族が住んでいて現在はシャン族が多いのですが、周辺にはアカ族、ラフ族、リショー族、パラウン族などが居住しています。私自身は民族を見るために観光するつもりはなかったのですが、それでもいくつかの民族を目に
ミャンマー チャイントン Author 101 Date 2017年7月19日 チャイントンはミャンマーのシャン州の都市です。タイ国境のタチレクから160キロ、そのまま国道を進めば中国の国境にあるモンラーに行きます。 チャイントンの歴史は長く13世紀にタイのチェンライを拠点としたランナー王国マンラー
ミャンマー タチレク近郊の村 Author 101 Date 2017年7月17日 タチレクはタイの携帯電話が使えるなど観光都市と言えますが、少し街から離れるとミャンマーの人々の素朴な暮らしが見られます。この村はタチレクから乗り合いバスで15分ぐらいの場所です。
ミャンマー タチレク Author 101 Date 2017年7月17日 タイとミャンマーの国境がサーイ川になっています。タチレクはタイのメーサイの向かいにあるミャンマーの都市です。ここからミャンマーに入国するためにはミャンマーのビザは必要ありませんので、多くのタイ人と外国人が訪れます。 黄金
ミャンマー ミャンマー連邦へ Author 101 Date 2016年11月30日 1988年8月以降、国内は10万人規模の集会とデモが繰り返され、各地で国軍との激しい衝突が起こります。この時の主な指導者の一人が暗殺で殺されたビルマ建国の立役者アウン・サンの娘のアウン・サン・スーチーです。国軍は激しい戦
ミャンマー ネィ・ウィン体制 Author 101 Date 2016年10月30日 1945年10月戦時中インドのシムラに避難していたイギリス政府が再び帰って来ます。イギリス政府は以前にも1939年までにビルマに自治権を承認する内閣の声明を発表していましたが、戦後、その権力を委譲する相手がビルマ政府(G
ミャンマー イギリス領ビルマ Author 101 Date 2016年10月30日 1885年にビルマ全土がイギリスの支配下となったビルマは、イギリス領のインド帝国ビルマ州となります。またイギリスはシャン、カチン、チン族をビルマ民族と分けて統治しました。1937年にビルマ統治法が制定され、ビルマはインド
ミャンマー ミャンマー社会の人 Author 101 Date 2016年9月30日 現在のミャンマーは軍事政権が続いているために国際社会に対して自ら国を閉ざしている印象は付きまとい、事実、アジアを知っている方でもミャンマーへは行ったことのない方が多いでしょう。ミャンマーは経済的にアメリカやEU諸国から制
ミャンマー 第2次大戦と日本 Author 101 Date 2016年9月30日 1939年9月にドイツがポーランドに侵攻したことでイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦勃発します。ビルマではこれを受けて植民地主義に反対する自由プロックが組織され、議長に前首相のバ・モオ、書記長にアウン
ミャンマー 西洋とコンバウン朝 Author 101 Date 2016年9月30日 こうした中で1754年にシュエボー(現コンバウン)、ミョウの領主出身でアヴァに攻め込んだアラウンパヤーが中央平原を支配します。1756年にはフランスが駐留しているシリアムを占領しますがアユタヤへ遠征途中で亡くなります。こ
ミャンマー 第2次タウングー朝 Author 101 Date 2016年9月30日 しかしバインナウン王の子ニャウンヤンは1597年アヴァ(現マンダレー管区)を拠点に、再びメイッティーラー、ヤメーディン、シャン地方を得て、その後のアナウペッ・ルン王がピェー、タウングー、シリアム、マルタバン、イエー、チェ
ミャンマー タウングー朝の隆盛 Author 101 Date 2016年9月30日 1300年に入ると中国の元がビルマに侵攻し、パガン王国も元との戦いに次第に衰退し、1364年新たに興ったインワ朝はアヴァに遷都します。また下ビルマにあったハンターワディー朝はタイのアユタヤ朝が北と東から勢力を拡大したこと
ミャンマー パガン王朝の幕開け Author 101 Date 2016年9月30日 1044年にビルマ族のアルニッダ王が下ビルマを平定しパガン朝を興します。1165年にスリランカの侵略を受けますが、その後、使節をスリランカに派遣し、多数のスリランカ僧がミャンマーを訪れます。この頃の碑文には古モン語、パー
ミャンマー ビルマ先史時代 Author 101 Date 2016年9月30日 現在、ミャンマーにあるイラワジ川、シッタウン川、サルウィン川流域には、古く紀元前3万年頃から人が住み着き、紀元前2,000年頃に既に水稲農耕社会があったと考えられています。中国の「後漢書」にはこの地域に1世紀末から2世紀