台北市街

台北にはケタガラン族という原住民がいましたが、明朝の頃から中国から漢民族が移り住むようになります。その後、スペインが台北市郊外に要塞を作り、台北をその活動の拠点にしました。

1683年に清国が台湾を統治しますが、台湾を「化外の地」と呼んで中国からの台湾島への渡航自体を制限します。しかし、漢民族の移住は増えて、台北は「一府二鹿三艋舺」と台湾の三大都市の一つになります。一府が台南で清朝の拠点であり、二鹿が中部の鹿港、三艋舺が台北に当たります。台湾の中心は台南だったのです。

1875年には清政府は台北府を設置して台北城の建設しましたが、日清戦争で日本に敗れた清朝は台湾を割譲し、日本の統治が始まります。
日本政府は台南を嫌い台北に総督府を設置したことで台北の発展が本格化します。市街の光景を一変させるほどの建造物とともに日本から多くの移住者がやって来ました。しかし、太平洋戦争が始まると日本軍が駐留したために台湾市民は疎開しなければなりませんでした。
戦後は日本人が引き上げて行き、代わって蒋介石の国民党軍がやって来ました。国民党は再び日本の建築物を中華様式に変えるなどしましたが、やがて中国の共産党に敗れて中国本土の拠点を失い、台北を中華民国の首都としました。国民党政府は軍事優先の開発独裁政権で国民の生活が後回しになりますが、1990年代には地下鉄が建設され台湾は飛躍的に発展しました。現在、台湾で世界的な企業が次々と産まれています。

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