1300年に入ると中国の元がビルマに侵攻し、パガン王国も元との戦いに次第に衰退し、1364年新たに興ったインワ朝はアヴァに遷都します。また下ビルマにあったハンターワディー朝はタイのアユタヤ朝が北と東から勢力を拡大したことに伴い1369年にペグーに遷都します。
15世紀後半のビルマの城市(ミョウ)にはタウンドゥインヂー、タウングー、ヤメーディン、サリン、ピェー、ニャウンヤンなどが存在し、それぞれが城主(ミョウ・ザー)の支配の元で独立していました。例えばタウンドゥインヂー城市は、中国の明朝と独自に国交を結び1433年から40年間明朝から東?長官司の役職を得て、綿布を中国に輸出しています。ハンターワディー朝のラーザーディリ王(1385-1423)の時代には既にポルトガル、ギリシア、ベネチア、マグレブ、パレスチナ、ペルシャ、アルメニア、エチオピア、マラバル、スマトラなどとの交易が確認されています。
1300年に入ると中国の元がビルマに侵攻し、パガン王国も元との戦いに次第に衰退し、1364年新たに興ったインワ朝はアヴァに遷都します。また下ビルマにあったハンターワディー朝はタイのアユタヤ朝が北と東から勢力を拡大したことに伴い1369年にペグーに遷都します。
15世紀後半のビルマの城市(ミョウ)にはタウンドゥインヂー、タウングー、ヤメーディン、サリン、ピェー、ニャウンヤンなどが存在し、それぞれが城主(ミョウ・ザー)の支配の元で独立していました。例えばタウンドゥインヂー城市は、中国の明朝と独自に国交を結び1433年から40年間明朝から東?長官司の役職を得て、綿布を中国に輸出しています。ハンターワディー朝のラーザーディリ王(1385-1423)の時代には既にポルトガル、ギリシア、ベネチア、マグレブ、パレスチナ、ペルシャ、アルメニア、エチオピア、マラバル、スマトラなどとの交易が確認されています。
こうした中で1754年にシュエボー(現コンバウン)、ミョウの領主出身でアヴァに攻め込んだアラウンパヤーが中央平原を支配します。1756年にはフランスが駐留しているシリアムを占領しますがアユタヤへ遠征途中で亡くなります。これを引き継いだシンビューシン王はチェンマイ、ビエンチャン、ルアンパパーンまで遠征し、1766年に清朝の乾隆帝の遠征軍を4度に渡り撃退し、1767年にアユタヤを征服します。1783年にはボードーパヤー王は新しい都をアマラプーヤに建設を始めますが、タイのターク・シン王の台頭とともにタイ・ビルマの支配権を巡って1785年とその翌年にタイに遠征しますが、逆に撃退されてしまいます。中国とはその後長い冷戦を経て1790年には清国と管理貿易を始めます。これをコンバウン朝と呼び、多くの戦争捕虜を王都アヴァに連行し、これに西洋人の砲手も加わり軍事力は強大になりました。そうした中で1798年にトゥインティンタイ・ウィミンヂー、マハーシィートゥーが「新大年代記」を編さんし、1802年には戸籍台帳に基づく全国的な調査が行われます。1832年にバヂドー王によりビルマの建国神話である「瑠璃王宮大御年年代記」が完成します。
またイギリスはビルマ統治以前にもモールメインに神学校をつくると共にローマン・カトリックを布教しており、1850年の時点でビルマには既に17の教会がありました。中でもカレン族には西洋式の教育を施し、1881年にはカレン民族協会(KNA)が発足し、1886年に施行された軍事警察法で発足した武装警察には半分のインド人の他は全てカレン人を採用しています。イギリスはこのように民族による「複合社会」を意図してつくり、その民族意識によって民族同士の対立を生み、これを植民地統治に利用していきます。同様にビルマ都市部ではインド移民と中国移民が増え続けましたが、1910年以降はインド人の増加が顕著になります。それと同時に国内の農業は植民地のプランテーション化が進み、ビルマが米の輸出国になるにつれて自作農、小作農ともにギリギリの生活の末に土地を担保に負債を抱える者が続出し、やがて季節労働者として都市部に流出します。しかしその都市部では既にインド人労働者が手配師を通じて港湾荷役作業や製材所で働いており、こうした過剰な労働力の供給が低賃金競争を招き、やがてインド人排斥運動へと発展します。
このような状況の中で1906年にヤンゴンで初の民主主義運動と言われる仏教青年会(YMBA)が結成され、1920年にはビルマ人団体総評議会(GCBA)へと発展します。GCBAは、イギリスからの「自治権」獲得を目標に、農民が苦しんでいた人頭税の廃止を訴え、イギリス製品のボイコット運動を通して多数の政治エリートを排出していきます。1922年の第1回立法参事会議員選挙でGCBAは内部分裂しながらも、1935年ビルマ統治法によりビルマの自治権は強化され、1936年の下院総選挙でバ・モウ、ウー・ソオらが台頭します。一方このGCBAをイギリス植民地の協力者として批判したのがタキン党です。タキンとは「主人」を意味し、「ビルマの主人はイギリス人ではなく我々ビルマ人」を訴え、自治ではなく社会主義国家ビルマの独立を掲げました。1938年から翌年にかけてタキン党はゼネストを断行し、植民地初代大統領バ・モオを退陣に追い込みます。
14世紀以降、ビルマ中央平原の米を供給し続けたタウングー城市は周辺地域からの難民を吸収し、急速に拡大します。1491年タウングー城主ミンチーニョウはヤメーディン、タウンドゥインヂーを次々と陥落。さらにミンチーニョウの子ダビンシュエティーがバセイン、ミャウンミャを攻略し、ついに1538年ハンターワディー朝をそこに駐留していたポルトガル艦隊もろとも打ち破り、王となってペグーに遷都します。その後もサリン、サグーを支配下に治め銃火機を備えたポルトガル兵を従え下ビルマと中央平原の統一を目論むまでになります。1551年にはダビンシュエティー王の義弟だったバインナウが王朝を引き継ぎ、新しく宮殿を構えインワ城を陥落、やがてモーニン、モーメイ、チェンマイ、ビエンチャン、マニプールへと勢力を拡大します。1564年にタイのアユタヤを陥落させ、1568年にシプソンパンナーが陥落することでほぼ現在のビルマを支配しました。このタウングー朝時代には貨幣を統一し、ワーレルー法典を整備します。またインドのムガール帝国、セイロン、ゴルコンダ(現ハイデラバード)と友好関係を築き、ヨーロッパ商人との間で宝石の輸出やチーク材による造船を請け負うなど国際的な交易が活発に行われました。
西はマニプールから東はラオスまで達したタウングー朝は、果てしなく続いた近隣諸国との戦争により周辺住民が逃亡し労働力を失います。そのため1567年以降は王都ペグーでも飢饉が頻発します。ナンダバイン王(1581-1599)の時代に5回ものアユタヤ(現タイ)遠征を繰り返しますが、結局、撃退されてタウングー王朝の衰退は決定的となりました。まず1594年にテナセリムの一部とダウェーをアユタヤ(現タイ)に奪われ、ピェー、タウングー、アヴァ(インワ)、チェンマイなどの城市が離反し、王都ペグーはタウングーとアラカンに攻められ廃墟と化します。またアユタヤにマルタバンを奪われ、とうとうビルマはタウングー、ピェー、アユタヤ、シリアムに分裂しました。