1916年になるとアメリカはニカラグアの内乱やパナマの独立に関わる中でフィリピンの自治を認め、1934年にはフィリピンは植民地から自治領に移行しました。
一方、第一次世界大戦の後に中国はヨーロッパ列強の植民地支配から脱し、アメリカ、イギリス、日本が協調する中で、中国は独立国家としての道を歩みます。アメリカとイギリスは従来の植民地支配を中国以外の国では継続したため、日本は中国の権益を失うことを不満に思っていました。日本は満州国樹立に相次ぎ、国連を脱退します。そんな中で1941年アメリカは日本の中国進出に批判する形でイギリス、オランダとともにABCD包囲網を敷き、日本への石油等の資源を全面的にストップさせ、これに呼応する形で日本はアメリカのハワイにある真珠湾を攻撃し、たちまちフィリピンは日米の決戦場と化しました。
フィリピンのアメリカ指揮官はダグラス・マッカーサーです。日本はインドネシアにあった石油資源を確保するためにアジア全土を巻き込んだ戦争へと突き進みます。日本軍は1942年にマニラを陥落、6月までにフィリピンにいたアメリカの全部隊が降伏します。日本軍はフィリピン人ラウレルを大統領にフィリピンを独立させますが、フィリピン市民の支持を得られません。日本にとって、フィリピンはそこにあるアメリカ軍基地を叩くことと、インドネシアからの輸送ルートを確保する以外に戦略的な意味を持ちません。ですから日本政府もフィリピン人に期待したことは、フィリピンに駐留する日本軍に反抗しない政府をつくるだけで良く、そのため他のアジア諸国と比べても真面目な独立政府を作るよう努力しました。しかし、結果的にこのフィリピンの統治がいち早く危機に瀕したのは、フィリピンがアメリカとの決戦場になり、日本が大量の軍隊を送ったため、日本軍がフィリピンの民間人から食料を略奪したことと、この戦争の建前とした大東亜共栄圏という概念がフィリピン人にとっては無意味なものだったことが考えられます。例えばフィリピンはその建国からヨーロッパの勢力によるものです。また、フィリピンの1940年代の輸出入ともその7割をアメリカが占めていましたし、アジア向けのものは20%未満にとどまります。植民地とは言え、彼らは生活においても西欧の文化に日常的に触れていて、一部のフィリピン人はアメリカへ留学もしています。そんな中で一般的な日本人がフィリピン人に対して「西欧かぶれ」と呼び、「アジアへ帰れ」などと説くのですから、その日本人こそ世間知らずと言えますし、実際多くの日本兵は他の世界のことなど知らなかったでしょう。ただ、戦後アジア諸国が独立する中で、現在のフィリピンの経済がタイやマレーシアに大きく追い抜かれてしまったのは、こうした西欧諸国に政治も文化も依存したためにフィリピン人自身の力でそれを発展させることが難しくなっているように思います。この日本によるフィリピンの統治が相当にちぐはぐなものだったと考えられるのは、戦後の1950年代に於いてさえフィリピンのGDPは日本を24%も上回っていたというデータからも伺えます。つまりアメリカの統治下のフィリピンはアジアの中でも決して貧しい国ではなかったのです。そのため、フィリピン人は現在でも、自分の国土を沖縄戦に見られるような日米の決戦の舞台とした当時の日本を加害者として認識しています。
戦火を逃れたマッカーサーはオーストラリアで南西太平洋地域の連合軍最高司令官に就任。1944年頃からアメリカはレイテ沖海戦、フィリピン島作戦で巻き返します。その一方で元フィリピン軍の将校及び農民革命運動家らに武器を供与し、やがてこうしたフィリピン人の勢力は27万人に上りました。アメリカは既にレイテ沖海戦で日本連合艦隊を壊滅状態に追い込んでいて、アメリカの連合軍がルソン島に上陸すると同時にセブ、ミンダナオにも進軍し、1945年8月に日本の全面降伏となりますが、フィリピンでは日本部隊はほとんど原型を留めておらず、またその時の部隊の責任者が最後の一人となっても戦うように指示していたこともあり、一部で戦闘は続けられました。結局、フィリピンでの日本軍の戦死者は33万6千人に上り、そのほとんどが日本からの補給を絶たれたことによる餓死及びマラリアなどの伝染病によるものとされています。この日本の戦死者の数はアジアの全戦線の中でも最多となります。