フィリピンはマレー系民族から成り、台湾を起源とするオーストロネシア語族に分類されます。三万年前に既に民族が暮らしていたと言われますが、国家をつくらずに部族ごとに別れていました。1521年マゼラン艦隊がフィリピンのセブに立ち寄った際に、セブのマクタン島の首長ラプラプと交戦し、艦長のマゼランは戦死しますが、艦隊の中の一隻がスペインに帰航したことで「地球が丸い」ことを証明します。その後、1565年スペインはセブを占領、1571年マニラを含むフィリピンのほとんどの島を占領します。現在のフィリピン人はメスティーソと呼ばれる混血が9割にも達し、イギリスやフランスの植民地ではこのような高い混血率は見られませんので、ラテン・アメリカの国々と同様にスペインのこうした植民地において極めて不自然な統治を行っていたことが知られています。スペイン人はまず住民を強制的にカトリック教に改宗させ、全ての街に教会を含むスペインの建造物をつくりました。こうしてフィリピンはラテン・アメリカの国々とアジアとの交易の中継地になり、大型帆船マニラ・ガレオン船の建造とともにガレオン貿易で栄えました。また、フィリピンの呼び名は当時のスペイン皇太子フェリペ2世の名前から取っています。国内は一握りのスペイン人の地主が支配し、フィリピン人の小作人にプランテーション農場で労働に明け暮れる生活を強い、19世紀にホセ・リサールなどによる独立運動が盛んとなりました。
1898年スペインはアメリカとの間でキューバの所有権を争い、この時アメリカはフィリピン人の独立運動家らと共に協力して、フィリピンにいたスペイン軍を打ち破ります。1899年アメリカはパリ条約に基づきスペインからフィリピン、グアム、プエルトリコなどを含む太平洋のスペイン植民地を譲り受け、キューバをアメリカの保護国としました。その一方でフィリピンでは初代大統領にフィリピン人のエミリオ・アギナルトが就任しています。ここに来てアメリカは掌を返してフィリピンに侵攻し、これをフィリピン軍が迎え撃ちましたが、この戦いでフィリピン軍の戦死者は20万人から150万人を数え、60万人の一般のフィリピン人がアメリカ軍に殺されました。この時のアメリカ軍の将軍はアメリカ本国のインディアン戦争で名を馳せた指揮官たちであり、アメリカ本土でもインディアンを同じ人間とは認めず、彼らの領土を略奪しています。