1885年にビルマ全土がイギリスの支配下となったビルマは、イギリス領のインド帝国ビルマ州となります。またイギリスはシャン、カチン、チン族をビルマ民族と分けて統治しました。1937年にビルマ統治法が制定され、ビルマはインド帝国から分離されてビルマ州知事がビルマ総督に変わります。また、土地の所有権の概念が導入されたことに伴い、全ての住民が土地に縛られることになります。1886年ビルマ全土は7管区、38県に分割され、それぞれの県を弁務官、副弁務官が担当します。
またイギリスはビルマ統治以前にもモールメインに神学校をつくると共にローマン・カトリックを布教しており、1850年の時点でビルマには既に17の教会がありました。中でもカレン族には西洋式の教育を施し、1881年にはカレン民族協会(KNA)が発足し、1886年に施行された軍事警察法で発足した武装警察には半分のインド人の他は全てカレン人を採用しています。イギリスはこのように民族による「複合社会」を意図してつくり、その民族意識によって民族同士の対立を生み、これを植民地統治に利用していきます。同様にビルマ都市部ではインド移民と中国移民が増え続けましたが、1910年以降はインド人の増加が顕著になります。それと同時に国内の農業は植民地のプランテーション化が進み、ビルマが米の輸出国になるにつれて自作農、小作農ともにギリギリの生活の末に土地を担保に負債を抱える者が続出し、やがて季節労働者として都市部に流出します。しかしその都市部では既にインド人労働者が手配師を通じて港湾荷役作業や製材所で働いており、こうした過剰な労働力の供給が低賃金競争を招き、やがてインド人排斥運動へと発展します。
このような状況の中で1906年にヤンゴンで初の民主主義運動と言われる仏教青年会(YMBA)が結成され、1920年にはビルマ人団体総評議会(GCBA)へと発展します。GCBAは、イギリスからの「自治権」獲得を目標に、農民が苦しんでいた人頭税の廃止を訴え、イギリス製品のボイコット運動を通して多数の政治エリートを排出していきます。1922年の第1回立法参事会議員選挙でGCBAは内部分裂しながらも、1935年ビルマ統治法によりビルマの自治権は強化され、1936年の下院総選挙でバ・モウ、ウー・ソオらが台頭します。一方このGCBAをイギリス植民地の協力者として批判したのがタキン党です。タキンとは「主人」を意味し、「ビルマの主人はイギリス人ではなく我々ビルマ人」を訴え、自治ではなく社会主義国家ビルマの独立を掲げました。1938年から翌年にかけてタキン党はゼネストを断行し、植民地初代大統領バ・モオを退陣に追い込みます。