第2次大戦と日本

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1939年9月にドイツがポーランドに侵攻したことでイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦勃発します。ビルマではこれを受けて植民地主義に反対する自由プロックが組織され、議長に前首相のバ・モオ、書記長にアウン・サンが就きました。このバ・モオ率いた自由ブロック運動はビルマ政府により多数のメンバーが逮捕されたため一気に武装化しました。
一方、当時の日本は1937年の盧溝橋事件以来、中国、日本双方とも宣戦布告もないままに既に戦況は泥沼化していました。1939年、この状況下でアメリカとイギリスは中国に武器を補給し、中国を支援するためにビルマに援蒋ルートを敷きます。日本はこのルートを切断することを鈴木敬司日本軍陸軍大佐に委ねます。1940年6月に鈴木大佐はビルマのタキン党幹部と接触し、日本がビルマの独立を支援することを約束し、1941年に「南機関」と呼ばれるビルマ工作謀略機関を設置し、鈴木自らが機関長を名乗ります。まず、アウン・サン、ネィ・ウィンなど「30人の志士」と呼ばれたビルマ人たちに海南島(現中国)で軍事訓練を施し、1941年12月に日本軍の真珠湾攻撃とともに始まった太平洋戦争と同時に彼らに義勇軍を組織させ、日本軍とともにビルマへ進撃しました。1942年1月にはこれにタイで暮らすビルマ人も加えてビルマ独立義勇軍(BIA)となり勢力も1万人を超えます。1942年6月にはビルマの民衆の声援の後押しを受け、イギリス植民地政府はついにインドに逃れ、同時に日本軍がビルマに軍政を敷きます。この時点で南機関も解散し、BIAとともに「ビルマ防衛軍(BDA)」を組織します。

日本軍政府は、若くて過激なタキン党員を敬遠し、中央行政府長官にGCBAにいたバ・モオ前首相を任命しましたが、バ・モオは日本軍の意に反して共に自由ブロックで戦ったアウン・サンなどタキン党員を政府機関に引き入れます。1943年8月1日、日本軍はビルマでの軍政を終わらせ、ビルマは大東亜共栄圏の国として独立します。バ・モオが首相になり、内閣閣僚にアウン・サンなど6名のタキン党員が入り、ビルマ防衛軍がビルマ国民軍(BNA)に変わります。また、続いて日本政府の意向を受けてビルマ政府はアメリカとイギリスに宣戦布告を行いますが、日本軍が秘密軍事協定に基づきビルマ駐留を続けたため、アウン・サンとタキン党員は密かに抗日活動に転じます。
ビルマ国内では憲兵隊の拷問、日本軍の横暴に加え婦女暴行や家畜の略奪、泰緬鉄道の建設に伴う強制労働があり、これに加えてインパール作戦の日本軍の歴史的な敗北により急速に信頼と威厳を失っていきました。この作戦に参加した日本軍将校8万6千人の内、生還したのが1万2千人に過ぎず、この7万人を超える犠牲者の4万人は餓死者だったため、この杜撰な作戦は現在でも語り継がれることとなります。作戦を発案し、強硬に推し進めたのは牟田口康也という陸軍中将ですが、参加した部隊の多くが戦地で補給を受けることもできずに、弾薬が尽きた部隊はイギリス軍に石を投げて応戦し、最前線で指揮を執った部隊長の英断で退却したものの、その路には餓死者が続いたために「白骨街道」と呼ばれました。これらの作戦の責任者は犠牲者に対する反省もないまま現在に至っています。

ビルマの日本軍統治下にあっても連合軍から武器の支援を受けていたカチン、カレン族と日本軍は戦闘状態にありましたが、1944年8月にビルマの政府内に抗日統一組織として「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)」が誕生し、続いてこれにビルマ共産党、タキン党系非合法組織とビルマ国民軍が加わり地下活動が活発化します。このパサパラと呼ばれたAFPFLを率いたのがアウン・サンと共産党のタキン・ソウ、タキン・タン・トゥンでした。彼らは既に1942年から連合軍と通じ、1945年3月に連合軍から武器の供給を受けた部隊が編成されます。また日本軍も独自にビルマ国民軍にゲリラ教育を施していて、さらに農民たちも加わり、1945年3月27日に日本軍に対して一斉蜂起し、ついに8月に日本軍は敗退します。

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