ビルマ先史時代

sdim1407-x現在、ミャンマーにあるイラワジ川、シッタウン川、サルウィン川流域には、古く紀元前3万年頃から人が住み着き、紀元前2,000年頃に既に水稲農耕社会があったと考えられています。中国の「後漢書」にはこの地域に1世紀末から2世紀前半にかけてタン[手篇+單]国という国が出てきます。120年には後漢に朝貢し、西欧の大道芸人を安帝に献上したという記録があります。このことから既にビルマを通る西南シルクロードはローマまで繋がっていたようです。当時のビルマは主にモン人が支配しており、実際にビルマ人がここを支配するのは10世紀以降のことです。タン国の後にピュー(驃)が「隋書」及び「新唐書」に登場します。

ピューは驃族の国で「長幼の序が見られる」文明国であったと記されてありますが、832年にチベット・ビルマ語族の南詔によって滅ぼされました。また、この他にもタイェーキッタヤー、ベイタノウ、ハリンジーといった城市国家が存在し、今でも城郭遺跡が残っています。これらの遺跡から仏像と共にヒンドゥー神像が出土しており、南仏上座仏教の他に大乗仏教とヒンドゥー教が既に伝わっていたようです。

またビルマとタイの国境付近には6世紀から11世紀にかけて、同じモン族によるドヴァーラヴァティー王国があり、ピューで発行された旭日銀貨がこの国でも使われていたようです。またドヴァーラヴァティー王国産の綿布は当時のペルシャの旅行家が太鼓判を押すほどの高級品として知られ、中国などに輸出しています。そして、ようやく9世紀になって南詔国の支配を受けていたビルマ人がイラワジ川流域に定住します。またイラワジ川の右岸にはスゴー・カレン人、パラウン人、南部にモン人がいました。

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