このようにフィリピンでは社会の上層部が結束しているために一般の市民が常に貧困に喘いでいるといった批判を受け、一部に農地解放などの政策も行われたことがあるようですが、その時にわずかなお金を必要とする多くの者たちが分配され受け取った土地を再び地主に売り払い、結局何も変わりませんでした。このことから元々、領土といった概念もない社会に生きた彼らには土地を所有する欲求も少ないことが分かりますし、地方の人の良さとフィリピン人の持つ不思議な連帯感も古来の共同社会を背景にしているようです。またその一握りに過ぎない地主にしても、その土地に暮らす人々に生活に必要な資金を貸すなどしているため、私たちが想像するような存在とも異なり、福祉的な一面も担っています。こうしたフィリピンの支配者による階層社会はヨーロッパの外来文化であり、本来は住民間の差別のない共同社会であったと考えられます。有名な話として「エドゥサ革命」があり、マルコス大統領が独裁政権を目論んだ際に立ち上がった市民を前に、道路を封鎖していた軍は一発の銃弾を発射することなく市民に道を開けました。このように全てのフィリピンの市民が一体となることがあります。
この助け合う一体感を持つ社会の対局にあるのが、マニラに代表される治安の悪さです。この治安の悪化は恐らく銃を規制するだけでも相当に改善されます。フィリピンの貧しい階層の者たちは銃を所有しておりませんし、資産家の自宅には必ず銃があります。ですから、フィリピンの市民は企業家といった社会の体制側にいる人間を必要以上に恐れていて、また銀行なども一般の市民は保証金がなければ口座を開くこともできないように企業と顧客である市民の立場が逆転しています。
フィリピンはラテン・アメリカ諸国と同様にカトリックを信仰していることが有名ですが、治安はラテン・アメリカにも劣ります。特にフィリピンのマニラの出身者が平気で嘘を言うことは、もはや周辺諸国の人さえもが知っています。なぜ、一般に厳格だと言われているカトリックの社会にも関わらず、アメリカの支配下でこうした一面を持つのかですが、元々アメリカも土地所有の概念を持たないインディアンに対して様々な契約書を作り上げ、それを根拠に土地を略奪しました。よく彼らが自由を口にしますが、アメリカ国内の銃の規制問題でも分かるように、本来は「力のない者に自由はない」といった最大限、力を信じている社会です。こうした力を持つ支配者によるアメリカ型資本主義の元で本来の宗教が無力化しているとも考えられます。