現代の国内政治

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1969年マレーシアのスランゴール州の選挙の結果、与野党の議席が伯仲し、中国系住民とマレー系住民が衝突し数百名の死者が出たため再び非常事態宣言しました(五月十三日事件)。貧困世帯の75%がマレー人であるというマレーシア社会の中で、商業的な成功を収めてその利益を擁護する中国人との衝突です。これを受けて1970年にラーマン首相は辞任し、フンセンが引き継ぎ、この間、マレーシアに住む中国人の30万人とインド人の50万人の市民権が問題となり、これに対してマレーシア政府はブミプトラと呼ばれるマレー人優遇政策を推し進めます。
この政策の内容は「イスラム教の信仰」、「国王並びに国家の忠誠」、「憲法の擁護(マレー人に対する議論の禁止)」等です。経済政策として貧困の追放と格差社会の構造再編を目指し、マレー人が貧困世帯に集中しているのは彼らが主に農業に従事していたことが原因と考えられたため、農作物の生産性を高め、農業以外の産業に関してもマレー人の株式保有比率を30%にまで引き上げることとしました。この結果、企業主の名義だけマレー人とした中国人経営の企業が増えたと言われています。しかしその一方で1970年代から繊維、電機、半導体などの労働集約型の海外の企業がマレーシアに進出したため、1980年までGDP成長率は7%から8%を維持し、貧困層は急激に減少しました。
1981年にマハティールが首相になり政権を握ります。マハティールはさらにブミプトラ政策を強力に推し進め、ルック・イースト政策のもと、日本や韓国に学ぶことを訴え、これまで西欧を目指した国づくりからの転換を図ります。また、国内にいる国王たちの政治的特権が経済活動に及ばないように縮小し、自動車、製鉄、セメントなどの重工業化を外資に頼って推進したため、結果として主に日本や韓国の直接投資を招きました。1991年には「ワワサン2020」を発表し、国外に向けマレーシアは2020年までに先進国となりマレーシア民族が一つとなることを宣言します。マハティール首相は日本に対してアジアのリーダーシップを期待すると発言するなど大変な親日家と知られており、実際に私たちがマレーシアに行くと日本的な勤勉さをその社会に見ることができます。結局、マハティールは22年間首相を勤め、在任中は政敵を罷免、逮捕するなど独裁的な強権体制を敷きましたが、最期はアブドラ・バダウィに引き継ぎ、現在はナジブ・ラザクが首相となっています。
現在に於いてもマレーシアは日本をはじめとする海外企業を積極的に誘致しており、国内の工業化は加速されています。また植民地時代から天然ゴム、木材、錫などの資源国でもあります。プミプトラ政策の施行後も経済は中国資本に牛耳られていて、貧困者はマレー人に多いという民族間の格差は変わらないため、この政策は同じマレー人同士の中に大きな格差を作り出したと言われています。

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