こうした民族ごとに異なった社会を築いた結果、民族の住み分けは教育にも影響を与えました。マレー人は伝統に則ってイスラーム寄宿学校でジャウィ文字を使いイスラム教を教えていたが、1903年にジャウィに代わってローマ字が使われました。その一方で中国人は伝統的な儒教教育を主に広東語、復建語、朝州語で教えていましたが、1912年に北京語を使うことが一般化されます。また、インド人は学校ではタミル語を使用し、その教科書もインドから取り寄せておりました。このような植民地の状況下で学校はマレーシアのことは教えずに、当時都市部では教育に熱心だった中国人やインド人はその子弟を英語学校に通わせたため、後のマレーシアの独立に際してこうしたエリートたちが人種を超えて英語で議論を重ねることになります。現在でもマレーシアの人々は2カ国語以上を話し、そのことがこの国の国際競争力を高めています。
15世紀から始まるアジアを発見したとされるヨーロッパ諸国の大航海時代とは、結局アジアで暮らす人々の暮らしを奪い、産出される交易品を略奪した挙げ句、こうしてヨーロッパに集めた世界の富で今日の西欧の近代化を達成する礎としたに過ぎません。古来からイスラム商人はインドや中国と交易を行っていた事実を考えれば、こうしたヨーロッパ人の「発見」は世界の歴史をミスリードするものであるため、今日では既存の世界の航路にヨーロッパからインドまでのルートが加わっただけとしているようです。