カンボジアには海外も含めて様々な団体とそれに伴う資金が援助を目的として入っています。その一方でカンボジア人の海外へ留学する者は意外といるのです。元々、ポル・ポトなどもフランスに留学していました。現在日本に来ているカンボジア人だけでも2千人を超えています。その中には私たちの税金を使って留学している者も少なくはありません。ですから、私たちが漠然とカンボジアに対して現代から切り離された社会をイメージしてしまうのはやはり植え付けられた情報に問題があります。また、折角こうして海外に留学した者たちが帰国後に学校などに勤めずに、もっと高い給料を求めてしまい、カンボジア社会に還元されているとは言えません。プノンペンにいると政府系の援助資金はすべて高級公務員のランドクルーザーに変わっているのではないかと誰もが疑うような状況になっています。
もちろん殊に教育に関しては本来カンボジア政府が責任を持つべきであり、その政府ができないから海外のボランティアが助けています。しかし、そのカンボジア政府がどういった国を造ろうと考えているのかといった基本的な姿勢が見えません。現在のところ、カンボジア市民はこの国を資本主義社会だと言っておりますが、政治のトップはベトナムに支援を受けた元クメール・ルージュの幹部たちであり、選挙は行われているものの、果たして明確な政策を持っている政党はあるでしょうか。また、現在のプノンペンには中国から大量の資金が流れていて土地の価格とかは既にバブルの状況にあります。中国本土に貯金出来ない資金がカンボジアに流れているとも聞きますが、これらは中国の官僚たちが国内の汚職で貯めたお金と言う者もいます。現在の世界的な金融危機の中で、カンボジアはある日突然に社会主義に戻る可能性だって捨てきれません。こうした状況下で多くのNGOは逆に政治的な制約なく自由に活動している印象を受けるのですが、当然多くの矛盾を伴います。
例えば皆さんもよくご存知の「学校をつくろう」という団体です。日本だけでも100団体を超えるでしょう。カンボジアの識字率は75%程度ですから教育が大切なことは理解しますが、実際の活動をどのように考えますか。例えば歴史にしても、クメール・ルージュをどう説明するのか、また、カンボジアにとってベトナム、中国、アメリカ、またはフランスはそれぞれ友好国なのか、そうではないのか。さらに学校ではクメール文字を教えるのか、アルファベットを教えた方が良いのか。クメール文字を教えた場合、カンボジアにどの程度のクメール文字で書かれた出版物が存在しているのか、将来クメール文字の出版物が確実に増えるという確証はあるのかといった矛盾はいくつも数え上げられます。また、プノンペンやアンコールワットのあるシェムリアップなどには既に多くの学校がありますので、恐らく学校を地方につくろうと言うのでしょうが、ではどの程度の人口密度に対していくつの学校を必要としているのか、例えば全住民が50名前後の村でもつくらなければならないのか、学校が近くにないからかわいそうと言うなら、では現在の日本の過疎の村の子供たちをどう考えるのか。もちろん、いずれも善意で行っていることですから誰も目くじらを立てることもないでしょう。しかしこのような矛盾を説明できずに学校をつくれますか。
私がこのようなことを疑問に思うのは、カンボジアの人々の生活を見ていて、私自身が現在の彼らをどう捉えるべきかが分からないのです。仮にその政府が国際的にカンボジアをどのように位置づけ、今後どういった方針で国を建設するのかを示せれば、それに沿って学校を運営できるでしょう。しかし、彼ら自身がこのカンボジアはどういった国であるのか見失っているのなら、果たして海外の人々がこの国の子供たちを教育できるでしょうか。現在のカンボジアは仏教国であり、フランスの植民地文化を持ち、一般の市民の生活はベトナムの社会と多くの共通点を持ち、デパートに並ぶ商品はアメリカ製やヨーロッパ製、中国製、韓国製にタイ製であり、中国の投資家とタイやマレーシアの投資家が共存し、ではクメール人とは何者かという答えは過去の遺跡の中にしかないのです。